ナスカの地上絵は宇宙に向けたメッセージは謎のまま残った

「ナスカの地上絵」というのは非常に有名ですね。
地上からでは判別不可能なぐらい巨大な動植物の絵が描かれているこの地上絵ですが、地面に描かれているというよりは、掘っているというほうが正しいかもしれません。

ペルー南部の盆地であるこの地一帯は、雨があまり降らず、赤褐色の地面が広がっています。
地面にある石をどけたところに明るい色の地表が現れるため、それが線となり、絵が構成されているというわけです。

テレビなどで見る地上絵は、かなり上の方から見ているのでピンと来ないかもしれませんが、あの絵を作っている線の幅はおよそ1~2mほどもあり、深さは20~30cmほどもあります。
地上から見ると干上がった小さな川のようです。

ナスカの地上絵は、1939年に考古学者であり大学教授のポール・コソックによって発見されました。
コソック亡き後は、助手である女性考古学者のマリア・ライヒエがその研究を引き継ぎます。
ライヒエはナスカの地上絵を保護するための施策を政府に訴えかけました。
さらに自費で保全費用を支払うなどして、地上絵を守るために奔走しました。
彼女のこの活動がなければ、地上絵は失われていたかもしれません。

ライヒエは、この地上絵を研究するために、ペルー空軍の協力を得て航空写真を撮影しました。
実際に、この巨大な絵がなぜ、どのように描かれたのかはまだはっきりとはわかっていません。

線の端に杭のあるものが見つかっているので、おそらく原画を放射状に拡大する「拡大用」を用いて、大きな絵を描いたのではと言われています。
描かれた時代は紀元前2世紀~9世紀頃までと推測されています。

しかし、この時代に、成層圏ほどから見ないと全貌がわからないものもある地上絵を、誰に向けて何のために描いたのか興味深いですよね。
謎が解明されてしまうより、謎は謎のまま残ったほうが想像も膨らみ、たくさんの人に夢を与えることができるかもしれませんね。

インディージョーンズのラストシーンの地であるペトラ

ヨルダン・ハシミテ王国にある「ペトラ」という街は、実際に訪れてみると、大きな赤い岩が陽の光に照らされて輝きを放ち、見る者を圧巻します。
「ペトラ」とはギリシャ語で「岩」という意味。
岩盤地域のため農業を行うのは難しく、人々は交易によって生活を営んでいました。
また、渓谷にある岩盤地というその性質から、大雨などがあると渓谷を鉄砲水となって通り過ぎるため、甚大な被害が出ていました。
そのため、ダムを建造したり、水道管を整備するなど、古くから進んだ治水システムが確立されていました。

紀元前1世紀頃から賑わいを見せ、エドム人という民族がペトラ付近で居住、その後、ナバテア人がこの地域を占拠、辺り一帯の貿易を独占したと言われています。
ペトラには岩壁を切り開いた建物があり、都市の入口にある「シク」という岩壁の通路は大迫力ですが、これもナバテア人が造ったといわれています。

その後、紀元前64年頃、ナバテア人はローマの将軍によりその支配下に置かれ、不満を持ったペトラの住民は反乱を起こします。
そして紀元105年に当時のローマ皇帝がペトラ人を降伏させ、106年にはペトラおよびナバテア人は正式にローマ帝国に属することとなりました。
以降、街は衰退。
8世紀頃には廃墟と化してしまいます。

ペトラはとても長い間、人々に忘れられていました。
1812年にスイス人の旅行者ヨハン・ルートヴィセ・ブルックハルトによって発見され、詳細な調査が進められました。
そして、1985年、ペトラは世界遺産に登録となりました。

ペトラの見どころとして、「エルカズネ」という宝物殿があります。
これは岩肌を高さ43m、幅は30mほどにわたり彫って造られた建物であり、どのような用途として造られたのかははっきりわかっていませんが、王家の墓であるという見方が一般的です。
宝物殿は、有名な映画「インディー・ジョーンズ」のラストシーンにも登場しています。

未だ謎多きマヤ文明の都市ティカル

グアテマラ北部のジャングルの中にある「ティカル」は、古代マヤ文明最大の都市の一つです。
このジャングル内に生息する「ケツアール」という非常に美しい鳥は、手塚治虫の「火の鳥」のモデルとも言われています。

ティカルは中米最大の文明「テオティワカン」の将軍により西暦378年に征服され、王朝が始まりました。

非常に大きな都市であり、ティオティワカンと同じくピラミッドが建設され、6カ所の遺跡が発見されています。
ピラミッドの周辺には約6万人ほどの人が暮らしていたようです。

最も有名なピラミッドは、通称「大ジャガーの神殿」。
上部の神殿に施されたジャガーの彫刻が人々を見下ろします。
高さはおよそ51mほど。
向かいにはもう一つの神殿が対となっており、他の建物も集合体のように建造されています。
何のためにこのような造りになっているのか、用途については今も謎のままです。

ティカルの人々を悩ませていたのは「水不足」でした。
周りには大きな河もなく、乾季に入ってしまうと、雨は全く降りません。
ごくわずかな雨をどのようにして溜めるのかが課題となっていました。
しかし、ティカルの土地は石灰岩でできているため、雨がどんどん染み込んでしまい、溜めることができません。
そこで人々が考案したのが、石灰岩を燃やして漆喰にし、その漆喰で地面や建造物を塗り固めていったのです。

漆喰は水が染み込むことがありませんから、雨水を貯水することができるようになりました。
そのおかげで、街はどんどん栄えて行ったのです。

しかし、この都市が衰退する原因もまた、この漆喰でした。

漆喰を作るためには、石灰岩を燃やさなければなりません。
そのため、燃料となる木々をジャングルから伐採し、それを長きに渡って行った結果、土壌が崩壊し、大干ばつが起こりました。
そして、作物が育たず、街は滅びてしまったのです。

どこまでも続く巨大な建造物万里の長城

日本から比較的行きやすい古代遺跡としては、中国の「万里の長城」。
宇宙からも見えるという話もありますが、その長さも、大きさもとてつもない建造物です。
その全てが現存しているわけではありませんが、現代でも6000km以上を確認することができます。

昔の中国では、外敵の侵入から国を守るために防御壁を作っていました。
これが「長城」です。
万里の長城は、紀元前7世紀ごろの春秋戦国時代に複数の国が造ったこの長城を、秦の始皇帝が統一したものといわれています。
その後、幾度かの増築により、あれほどまでに長い建造物になったという言い伝えがあります。
現在ではその一部のみが残っているとはいえ、実物は相当な迫力。
長い歴史を持つ中国という国を実感できる遺跡として、とても人気の高い観光地となっています。
北京からも行きやすいので、中国観光の際にはこの万里の長城へ訪れるようプランされていることも少なくありません。
ホテルや飲食店も多く、観光客向けに整備されているので、ショッピングなども楽しむことができるでしょう。

観光に適しているのは夏から秋にかけて。
冬はとても寒く、大雪が降るため観光どころではないでしょう。
また、春は気候的に穏やかですが、黄砂のシーズンと重なるため、視界が悪くなるおそれがあるため注意が必要です。

万里の長城はハネムーンの行き先の一つとしてもおすすめ。
長城からの絶景を楽しんだ後は、北京のゴージャスなホテルでのんびりとディナーを楽しむ。
そして夜はいつもと違う雰囲気でセックスを楽しむのもよいですね。
「歩きすぎてくたくた」ということもありますから、事前にバイアグラや、長時間作用が持続するシアリスなどを準備しておくとよいでしょう。
シアリスは2日に1錠服用、最長36時間ほども効き目が持続します。
少ない量で充分に効きますので、税関で没収されないよう、必要最小限の量を携帯しましょうね。

未だ謎の多いイースター島のモアイ像

誰が何のために造ったのかわからない巨大な顔「モアイ像」は、とても有名です。

このモアイ像がある南米イースター島は、オランダ海軍が感謝祭イースターの日に発見したことから名づけられました。

絶海の孤島であるイースター島にいた原住民の人々は、18世紀~19世紀ごろに奴隷として島外に連れ出され、その後、わずかに残った住民は天然痘にやられ人口は激減。
そのため、モアイ像がどんな目的で作られたのかなどを伝承する人がおらず、謎として残っています。

このような人の像が造られたのは、10世紀ごろと推測され、最初は国の長を称えるためと思われています。
しかし、それから様々な部族に分かれ、それぞれの部族の長が増えると共に、像も増えていったと考えられてます。

モアイ像といえば「顔」を思い浮かべる人も多いと思いますが、初期の頃の像は足もちゃんとあります。
その後、4世代ほどに渡りあの大きな長い顔だけの不思議な像になっていったようです。
大きさはさまざまで、小さなものは高さ2~3m、大きなものは8m近くもあります。
石でできていますから大変重く、これだけ重く大きな石を動かすために、大量の木材を伐採、そしてこの森林伐採が環境破壊に繋がり、食料が不足したことによる部族間の争いが激化し、人口が大幅に減ったともいわれています。

また、海沿いにあるモアイ像は海に背を向けて建っていますが、島の中心に近い像は、その向きがそろっていません。
村を囲むように建てられていることから、おそらく村の守り神のようなものだったのではと思います。
そのため、部族間抗争の際には破壊の対象となり、多くの像が壊されてしまいました。

こういった人々の争いも、そして住民が死に絶えていく様も、モアイ像はただ見守るしかありませんでした。
そう考えると、哀しくも切ない島ともいえるかもしれません。

当時の姿がそのまま残るポンペイ

イタリア観光において外せないスポットがポンペイの古代遺跡です。

ナポリからほど近いポンペイは、紀元前7世紀ごろ、イタリアの先住民が集落を作り生まれた街です。
港に着いた荷物をローマへ届けるための中継地点として重宝され、店や遊興スポットなども整備されていたため、ローマ人の別荘地としても人気が高かったといわれています。

しかし、賑わいを見せていたポンペイの街を激しい地震が襲います。
甚大な被害を受けましたが、再建に向けて住民は頑張りました。
しかしその再建中に、今度は街の北にあるヴェスヴィオ火山が大噴火。
火山灰が降り続け、街はあっというまに灰に埋もれてしまったのです。

その後、18世紀に発掘されるまで街は長い眠りについていました。

しかし、この火山灰があることにより、ポンペイは埋まった当時のままで姿を現します。
逃げ遅れた当時の人々は、灰に埋もれて亡くなり、その後、人の形に火山灰の空洞が残りました。
ポンペイでは、その空洞に石膏を流し込んだ石膏像を見ることができます。

ポンペイの街では、灰により温存された当時の建物や壁画を見学することができます。
壁画に描かれた人々の姿は実に生き生きとしており、彼らがどのような暮らしをしていたのかがよくわかります。
非常に保存状態が良く、まるで時代を遡ってローマを訪れたような感覚におちいるでしょう。
ポンペイ観光のポイントとしては、日差しのきつい真夏を避けること。
屋外での見学が中心となり、日蔭はほとんどありませんので、防止やサングラス、日よけの上着などを持参すると良いでしょう。

イタリア旅行ではミラノやローマを観光プランに入れる方も多いでしょう。
併せてこちらポンペイ見学も行えば、古代から近代を通したイタリアの魅力を堪能できると思いますよ。